愕然としました。
映画という存在が象徴的な境界線として機能するのではないか、と思った矢先です。
これを書いたtamura38さんというのは、以前2回ほど参加したエスカレーターツアーを主催された方です。
そして、実は先週「告白」を見たとき、もう1つ見ようかと悩んだのが「踊る大捜査線 THE MOVIE 3」です。ちなみに、テレビシリーズも過去の劇場版も見ていませんが、かなり何回も映画館で予告を見ていたので。
というわけで、話題がシンクロしています。
境界線のあっちとこっちで話題がまるでかけ離れているが、実は境界線のこちら側では話題が驚くほど重なるということなのでしょう。たぶん。
え? 「踊る大捜査線 THE MOVIE 3」は面白いかって?
見てないから分かりません。
というか、映画は嗜好品なのだから、別にどういう感想でもいいでしょ?
誰でも自分の感想を好きなように感じてよいわけだし。
(でもそれは映画の評価そのものには直結しない)
で、更に余談を続ける §
え? 最初から余談なの?
もちろんそうです。
さて、話はここで終わらないわけです。
境界線があって、境界線のこちら側に映画があって、話題がクロスしているわけです。話題がクロスというと、実は第2回のエスカレーターツアーの懇親会でなぜかみんな音楽活動の経験があることが分かったりする現象も同じような「話題のクロス現象」ですね。
では、境界線の向こう側と喧嘩になるのではなく、こちら側で喧嘩になっているのはどういうことでしょうか?
つまりですね。実は喧嘩になっているというのは、裏を返すと「コミュニケーションが成立している」ということです。
逆に言えば、境界線の向こう側とは「喧嘩すら維持できない」のです。
「維持できない」といのは、怒って殴り込んでも、論争が成立しないからしぼんでしまうわけです。
もう1つ言えることは、論争ができるということは当事者に情熱があるわけですね。なぜかといえば、しらけていれば「はぁ。そうですか。ごもっとも」と言ってスルーするだけだから。
とりあえず、その熱さがあることは、無いよりは良いと思います。ムダに暑苦しく他人に絡むと迷惑だけどね。
というわけで、実はここで余談が境界線はどこにあるかという話から、境界線のこちら側の話に微妙に変化していくのでした。